霊的な者の苦しみ
悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである(マタイ5・11)/
1.スウェーデンボルグ
2.サンダー・シング
3.マリア・ワルトルタ
4.あなたがたに最も近い人々や、最も愛されている人々の間にいて、あなたがたと戦う
5.グリニョン・ド・モンフォール
6.聖母から司祭へ
7.マーリン・キャロザース
詩篇34・20-22
主に従う人には災いが重なるが
主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように
彼を守ってくださる。
主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
主に従う人を憎む者は罪に定められる。
1.スウェーデンボルグ
天界の秘義5008[7]
このことから究極的な霊的な真理は自然的な人から見られた際、いかような性質のものであるかが明らかである、即ち、それは上着のようなものであり、この上着が取り去られると、自然的な人と霊的な人とは些かも一致していないし、従って霊的な人は自分自身を自然的な人から防禦する手段となるものを何一つ最早持ちはしないのである。このことがヨセフがその上着を棄て去った時逃れて、外に出ていったことにより意味されているのである。なぜなら単に自然的な人は内的な事柄を承認しないのであり、それで外的なものが取り去られ、また取り上げられると、その両方の者は直ぐにも分離してしまうからである。さらに、自然的な人は、霊的な人が究極的な真理を確認するに当ってその手段とする物を凡て誤謬と呼ぶのである、なぜなら霊的な光のものである事柄を自然的な光から見ることは不可能であるため、彼は自分が確認するものは実際そうしたものであるが、否かを認めることは出来ないからである。このことは[自然的な光から霊的な光のものであるものを見ることは]秩序に反しているのである、しかし自然的な光の中に在る物が霊的な光から見られなくてはならないことは秩序に順応しているのである。
天界の秘義5022
「彼女は彼の上着をそばに置いておいた」。これはそれが究極的な真理を保留したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『そばに置いておくこと』の意義は保留することであり、『上着』の意義は究極的な真理であり(それについては前の5006、5008番を参照)、その真理が取り去られると、霊的な人は単に自然的なものである者たちに対して自分自身を防禦する物を一切もはや持たなくなり(5008番、5009番)、そうしたことが起ると危害が彼に加えられるのである、なぜならその時霊的な人が何を言うにしても、単に自然的な人間は、自分たちは認めないと言い、またそれはそうではないと言うからである。そしてもし内なるもの、または霊的なものが単に口に出されるのみで、彼らはそれを嘲笑するか、またはそれを神秘的なものと呼ぶか、するのである、それで彼らの間の交流はことごとくその時破壊されてしまい、それが破壊されると、霊的な人は単に自然的な者の間にあっては苦しむのであり、そのことが、ヨセフが、その妻がその夫の前で上着により証明した後で、牢に投げ入れられたことにより表象されているのである。
天界の秘義7217
「心の苦しさのあまり*」
*または『息切れがして』
これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から
認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこにかき立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、これに反し単に自然的な者らは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。
真の基督教11
第一の理由は啓示が無いならば、神の概念を持つことは不可能であり、従って神を認めることは不可能であり、而して主に関する概念とそこから生まれるところの、「神の完全性は尽く身体を作して主の中に宿る」という認識は、凡ての啓示の冠である聖言に由らない限り得られないということである。何故なら与えられた啓示の助けによって人間は神に近づき、流入を受け、かくて自然的から霊的になることが出来るからである。原始的啓示は全世界に遍く拡まっていたが、然しそれは自然的な人間によって歪められ、そこから宗教的論争、紛争、異端、分離が生じた。第二の理由は自然的な人間は神については何事をも知ることが出来ないということである。即ち彼は単に世を知り、現世の知識を利用し得るのみである。それ故、自然的な人間は霊的な人間に対立し、両者は互いに抗争するということが基督教会の教理である。
2.サンダー・シング
徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P364
人は新生して神の子となるや否や、生活と行ないは以前とは打って変わり、世はすぐさま彼を変人、愚者と考えて、敵対し、迫害し始める。そればかりか、彼はあらゆる苦しみを通過しなければならない。苦難を通して完成に至ることが神の御心だからである。このような苦難が無用の長物であったなら、とうの昔に神の御手によって取り除かれていたはずだが、実際にはわたしたちが御恵みの中で成長してゆくのに必要なのである。そのため神は、わたしたちを苦難と戦うままにされているのである。わたしたち自身のためになる悲しみや苦しみから逃げ去ることが、神の御心でないのなら、われわれはそこから逃れようとしてよいものだろうか。地面にまかれた麦の種子をみよ。毎日のように種子は闇の中でもがきながら上へと芽を伸ばし、ついに実りをもたらす光と熱の世界へと顔を出す。人間も同じである。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P278
[7] この世においてもかの世においても、心の渇きが神によってしか満たしえないことを知らずにいる人が非常に多い。そのような人たちの中には―哲学者も犯罪者も含め―この世に満ち足りを感じられなくなって自暴自棄になり、自殺を図って人生を終わらせようとする者がいる。これと逆なのが真の神を信ずる者である。霊的経験の中で成長が高まれば高まるほど困難が増してくるため、彼らは現世において非常に苦しむ。俗な心の持ち主はこのことを全く理解しないため、彼らは手を差し伸べるよりも迫害することの方が多い。ところが、彼らは世俗的な野心を否定して神との交わりの中に平和を実現しているので、絶望のあまり自殺するということがない。もっとも、すべて霊の渇きは神の中で満たされるとはいえ、人は友との交わり、共感に憧れる。そして、このような社会的交わりが満たされない場合には、神であり人であるキリストが、社会的性格の交わりばかりか霊的なそれをも満たしてくださる。人の痛みに対する主のご理解は神の性質からくるばかりか、人として苦しまれたときの実体験からきているので、苦しみの中にあるどのような人々にも完全な助けと憐れみをかけることができるのである。
[8] この世において霊的心をもつ者が苦しむというのは、真理を味わうことができないために性格が歪み、隠れた罪によって霊的識別力を失ってしまった者たちが誤解するからである。この種の人々は、正しい人間を前にすると違和感を覚えて本能的に敵対せざるをえなくなる。だが、神に敏感な感性と良心をもっているその人は、似た心の人を前にすれば互いに引き寄せあう神の生命をそこに見る。
真のクリスチャンの生命は、切りかかる斧に対して害を加えず逆に芳香を返すサンダルウッド(白檀)にも似ている。神はヘンリー・スソーに対して「あなたは名声の失墜に苦しむだろう。愛と信頼を求めるところ、あなたは裏切りと苦しみをみる」と警告されたが、これは多くのクリスチャンの経験にいえることである。神的預言者、使徒、キリストご自身さえ苦しまねばならなかったこの世において、苦しみを避けたいと思えば真理を拒否し、神から顔を背け、この世と馴れ合いになるしかない。一方、キリストと受難の交わりを共にすることは大きな特権である。やがて定められたときがきて、主と苦しみを共にした人が永遠の栄光に入り、神とともに治めるときがくる。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P6
この教えを深く理解し、それに従って生きるように勧めたい。さらに言うが、全く私に倣って生きることは、静かな喜びだけではなく絶えざる苦労と努力であり、苦しみでもある。なぜなら世間は私に与えたことを、キリストに倣いたい人々にも与えるからである。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷中P86/527・5
「本当に! 昔は、なんと美しい日々だったのでしょう!・・・」。
「はい。人間にとって。人間であるわたしたちにとって、とても美しい日々でした。でも、わたしたちの中にある霊魂にとっては、今の方がよいのです。なぜなら、神の言葉がよく知られ、もっと苦しむようになったからです。人は苦しめば苦しむほど、よく贖います、ヨハネ・・・ですから、わたしたちは幸福な日々を忘れませんが、わたしたちを悲しませるこの日々を、もっと愛さなければなりません。わたしたちを悲しませる人を、もっと愛さなければなりません。
彼らは、悲しみによって、わたしたちに霊魂を与えるのですから。」
聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P27
教師たちの教師、聖人たちの聖人であるわたしがそうであったように、多かれ少なかれ常に世から憎まれ、また、彼らがその生きざまそのものによって、世と世の権力者たちに向かい『あなたたちのしていることは赦されていない』と言うのをけぶたく思っている権力者たちに苦しめられて来た。しかし、サタンの息子の時が来れば、反キリストによって開かれる底知れぬ深みから地獄が迫り上がり、彼らに情け容赦のない戦争を仕掛けて、人間的に見れば、彼らに勝ち、彼らを殺すだろう。
しかし、それは真の死ではないだろう。それどころか、生命の中の生命、真の栄光ある生命であろう。なぜなら、もし十戒においてわたしの律法を守る者たちが生命を得るのなら、わたしの完徳への福音的勧告にも従い、彼らの存在をわたしと共に彼らの模範と仰ぐ永遠の生贄イエズスへの愛のために完全な生贄とするに至った者たちは、どのような生命の充満を得るであろうか?
光り輝く復活に招かれている者たちは、人間にとって最も愛すべきもの、すなわち命をわたしと兄弟たちへの愛のために、またわたしに従うために投げ捨てる者たちであろう。天においても地においても愛よりも偉大なものはなく、兄弟たちのために自らの命を与える者たちの愛ほど偉大な愛はない、と繰り返してわたしは疲れを知らないだろう。
4.あなたがたに最も近い人々や、最も愛されている人々の間にいて、あなたがたと戦う
聖母から司祭へ1980.8.15
このように、かれ[悪魔]は、どんな手段に訴えても、おとし穴をしかけます。これは、しばしばあることですが、あなたがたにもっとも近い人々や、あなたがたからもっとも愛されている人々のあいだにいて、あなたがたと戦うのです。それは、あなたがたを失望させるために他なりません。かれは、こうして、あなたがたの使徒的活躍に対する熱心さと、情熱をさまそうとするのです。
あなたがたの天の母に完全な信頼をよせて進みなさい。あなたがたの愛のかわきを、私の汚れなき心でだけ、いやそうとつとめなさい。ここなら、あなたがたを落胆させるようなことは決してありません。ここでこそ、あなたがたは、英雄的な愛に導かれるでしょう。ここで、あなたがたの、あらゆる傷は、介抱され、いやしてもらえるでしょう。こうして、あなたがたは、人々の霊魂に奉仕できるように、新しい力を得て、新しい飛躍をとげるでしょう。
聖母から司祭へ1988.11.12
―落胆に負けないように。
わたしの敵は、あなたたちを打つために、しばしば、善い人、あなたたちから助けられたこともあるような人さえ利用します。ときとしては、あなたたちの仲間である司祭さえも利用するのです。
わたしを尊敬し、わたしのいうことを聞き、わたしに従う司祭たちが、他の司祭たち(かれらも、わたしの母としての愛をうける最愛の子らであるが)、に笑われ、侮辱され攻撃されるとき、わたしが予言したその時が来たのです。
5.グリニョン・ド・モンフォール
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/190
⑤最後に、亡びる人は、くる日もくる日も公々然と、または、かげにかくれて、救われる人を憎み、また迫害しています。救われる人を圧迫し、軽べつし、非難し、反対し、侮辱し、強奪し、だまし取り、丸裸にし、土足でふみにじっています。しかるに自らは、巨億の富をたくわえ、あらゆる快楽にふけり、商売は繁昌、家内は安全、経済はますます高度成長、名声は天下にとどろきわたり、栄よう栄華をきわめています。
6.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1976.7.31
特に愛されている私の子らよ、大きな信頼をもって私にしたがってください。そしてあなたがたの生活に於いて出逢う困難にこだわらず心配しないでください。
この困難は私の母の心であなたがたのために準備されたものです。この困難は、あなたがたの私の汚れなき心への完全な奉献の生活を育てています。この困難はあなたがたの見方、感じかた、嗜好、愛着からはなれさせ、少しずつわが子イエズスのみ心に従って見たり感じたりするように導きます。
私はあなたがたが困難を堪えしのんだその心の中に、イエズスのいのちが育てられたのを見ます。そしてこれは私の母の心をどんなに強めてくれるでしょう。
子らよ、あなたがたの生活が私の個人的な影響によって、本当に変わりつつあることに気がつきませんか?
内的な困難はあなたがたをいっそう苦しめます。あなたがたは、私のものですが、まだ世に引かれています。私の清さを着ていますが、まだ肉の誘惑の苦しみを感じています。あなたがたの中のある人々は、歎きながらそれから解放されたいと望んでいます。
更に、あなたがたが経験するこの内的な困難は、あなたがた自身からも離脱するために、どんなに助けになるでしょう。
特に愛された子らよ、自分を決して見つめないでください。あなたがた自身が美しくないと思うほど、私とわが子イエズスには、あなたがたはいっそう美しい者に見えるでしょう。
あなたがたを覆うのは私のマントです。私の清さそのものが、あなたがたを照らすのです。それから外的な困難があります。それはあなたがたが住む環境によるもので、誤解や非難です、時には軽蔑や讒言さえあります。
私の敵は、あなたがたを打ち倒し落胆させるために有力な武器としてそれを使います。
あなたがたはどのように答えたら良いでしょうか?
イエズスのように沈黙と祈り、おん父との完全な一致の中に生きることです。
おん父の光の中では、本当でないこと、良くないこと、偽り、讒言など、すべてが霧が太陽の下に消えると同じように消えさってしまいます。
それで、私の汚れなき心にいるあなたがたには、何ものも触れることができません。
誰かが、故意にあなたがたに悪を望んでもそれは実現しないでしょう。また誰かが善意をもって何かするなら、悪があなたがたに起こる前にその人は光に照らされるでしょう。
ですから現在の嵐の中にあっても、あなたがたは平和の内に歩むでしょう。
7.マーリン・キャロザース
マーリン・キャロザース/モアパワー/P56
混乱は、すべての人、すべてのものに関して、私たちを取り囲んでいます。私たちが気を緩めると、サタンは、一緒に住んでいる人、一緒に働いている人、ともに礼拝している人に対してさえ、悪い考えを持ち込んでくるでしょう。サタンは、家庭や教会を破壊するために混乱を用いるのです。分裂と争いの二つがサタンのお気に入りの武器です。